サキャ・パンディタ モンゴル帝国への仏教東漸2

個々のチベット人は抵抗を試みたものの、モンゴル軍に一蹴され、カダム派の本山ラデンや律の名刹ギェルラカンが炎上します。
ただ、有力な氏族は個々にコデンへよしみを通じ、攻撃の手を免れました。

さて、このような情勢で、コデンはサキャ・パンディタへ親書を送ります。

緒戦で力を示したモンゴル軍は、外交によってチベット諸氏族を傘下に収めようとしました。
当時、サキャ・パンディタはチベット一の高僧として知られています。
そして、チベット代表として彼に白羽の矢が立ったのです。

では、その親書を見てましょう。

------
永遠なる天の威力によって、大福蔭の加護によって。
皇帝聖旨

サキャ・パンディタ・クンガゲルツェンパルザンポに対して諭す。
朕が、父母と天地の恩恵に報いるために、朕には、道を指示し、善悪を区別できる上師ラマが必要である。
そして選ぶに際して、尊者を選んで決めた。
労をいとわずこちらに来ることを期待している。
もし、尊者が年齢を取っていることを口実にして来られないとすれば、釈尊が衆生に利益するためには身命を惜しまれることがなかった事実に反する。
(中略)
わが国の決まりによって大勢の軍隊を派遣すれば、多くの衆生の命を害なうことになると思わないか。
だから、尊者よ、尊い教えで衆生に安楽をもたらすことを大事にされることを望む。
(中略)
朕は尊者に、チベットの僧侶を指導管理する一切の権限を与えるから。
尊者に対する贈り物としては(以下略)
ドルタノルボとホンジョウダルマ2人を使節として派遣する。
龍年(1244年)8月30日
------

要約すると、チベットがモンゴルへ服属し、そのチベットをサキャ・パンディタが指導せよ、という内容です。
むろん、軍事力による威嚇をちらつかせて。

名指しで指名されたサキャ・パンディタの心中はいかばかりでしょうか。
1244年、63才の高齢を推して彼は、甥のパクパを連れてモンゴルへ旅立ちます。

さて、実際にサキャ・パンディタがコデンと会談したのは1247年の事です。
これが世に言う涼州会談です。
この時、彼はコデンの病気を「獅子吼法」を修し治療します。
密教僧かつ医学に精通する彼の面目躍如でしょう。

以後もモンゴルにおいて王や大臣に灌頂を授け、仏教を布教します。
以後、彼は亡くなるまでモンゴル宮廷において、チベットのために尽力するのです。


後日譚として。
モンゴル人は、次第にチベット仏教を受け入れていく。
また、モンゴル帝国から清朝の満州族に至るまで、北方遊牧民は仏教を報じ、チベットとは永く友好関係を持つに至った。

サキャ・パンディタと同行したパクパは、皇帝クビライの時代、帝師に任じられる。
彼は、モンゴル人のために文字を製作した。世に言うパクパ文字である。
パクパ以後も、代々チベット人が帝師に任命され、帝国全体の宗教行政を統括する地位を担った。

サキャ・パンディタはモンゴル人へ仏教を伝えた端緒として今も名高い。