『大乗起信論』始覚について

『大乗起信論』更新しました。
随分と間が空いたので、あらすじを書きます。

人の心は、本来完全なものですが、現実に働く心はそうでもなく、覚りと迷いという視点から見ることができます。
そして、本来覚りの部分から心を解説するのが以下の部分です。

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ここで言う覚の意味とは、心は本来、妄念(主観的な分別)を離れていることを言う。
妄念を離れた姿は、虚空界(=真如)と等しく、普遍的なものなので、法界一相(真実の姿)である。
そして、それは如来の平等法身(仏の智慧そのもの)である。
この法身をまた本覚と名づける。
それはなぜか。
本覚の意味は始覚の意味に対応したものとして説かれたもので、始覚とはつまり本覚と同じ事である。

始覚の意味は、本覚(覚り)があるから不覚(迷い)ということがあるし、不覚があるから始覚(始めて覚る)があると言うのである。
また、心原(心の底)まで覚るので究竟覚と呼ぶ。心原を覚らなければ、究竟覚ではない。これは、どのような意味か?

1.凡人は、以前に心の妄念が起こした悪を覚るので、後に起こる妄念を止めて悪を起こらないようにさせるので、同じく「覚り」と呼ぶけれども、これは不覚だからである。

2.二乗(声聞・縁覚)の修行による智慧と初めて発心した菩薩は、異相(貪り・怒り・我執)について覚っているので、妄念に異相が無く、麁(粗い)分別執着のすがたを捨てているので、相似覚(覚りと似たもの)と呼ぶ。

3.初地以上の菩薩は妄念が持続している事を覚るので、妄念の持続を離れ、分別作用と粗い念相までは離れているので随分覚(分に応じた覚り)と呼ぶ。

4.菩薩地の修行も終えたなら、すべての方法を習得し、最後の煩悩を断つ瞬間、妄念の起こる最初の瞬間を覚る。最初の瞬間が無くなり、微細な妄念からも離れるために、心性(心の性質)を見ることができる。その心は即ち常住であるので、究竟覚(究極の覚り)と呼ぶ。