『大乗起信論』解釈分・離言真如

『大乗起信論』第三段解釈分を更新しました。

 

さて、前回に引き続き「心」が主題となっています。その心は心真如と心生滅というふたつの側面から分析されます。

 

真如は「真実あるがまま」という意味ですので、まずはそうした視点からの解説です。
本文では、心は本来不生不滅の完全なものだけれども「妄念」というものによってそうではなくなっている、と言います。

また、本来の心は言葉、文字、認識、思念の世界とは異なるようです。これは一体どういう事でしょうか?「妄念」とは何でしょうか?

 

辞書では「誤った理解」とか「無明」と説明されますが、渡辺照宏師の訳では「主観的な分別」とされており、これがわかりやすいかと思います。

 

一例を挙げます。ここに生まれたばかりの赤ちゃんが居るとします。

赤ちゃんはまだ自分とそれ以外を区別することができませんし、五感で認識されるものを区別することなく等価値で記憶していきます。

言葉や思念から離れていますので心真如の状態と言えるでしょう。

 

ところで、人間が成長するにしたがい、認識したものを言葉でラベル付けをし、自分にとって好きとか嫌いとか意味を付け、整理していきます。

ものごとをそのまま受け入れるのはしんどいことなので、そうして頭の中でできあがった常識にしたがって生きる大人になってゆく訳です。

いつの間にか、昔のような感動がなくなったなあ、などと思いつつ…これが「主観的な分別」妄念ということです。


我々は、もう自分の眼で見ず、頭の中でできあがった言葉・思念という色眼鏡を通して見るようになってしまう。

つまり、脳が発達して言語を習得した人間は、逆にその言語によって足をすくわれる。

その妄念に対処するのが仏教の主題なのですが、先走りになりますので今回はここで終わります。

 

 

以上、立義分を説き終わったので、次に解釈分を説こう。解釈分には三種ある。その三種とは何か。1.顕示正義(正しい教えを明らかにする) 2.対治邪執(誤った執着を反駁する) 3.分別発趣道相(道に向かって進むありさま)である。

1 顕示正義(正しい教えを明らかにする)
顕示正義では、一心法に二種門があることを説く。どのような二種なのか。1.心真如門 2.心生滅門である。この二種の門はそれぞれが一切法(あらゆるもの)を含んでいる。これはなぜなのか。この二門は別のものではないからである。

1-1 心真如(心の本来の面)
心真如とは一法界(真如)であり、大総相(一切に通じる相)であり、法門体(教えの本体)である。言わんとするところは、心の性質は不生不滅であるということである。あらゆるものは、妄念(主観的な分別、無明)のために差別があるだけで、もしそうした思念を離れれば、あらゆる対象の姿は存在しない。そのため、あらゆるものは本来、言葉で表されるものではなく、文字で表されるものではなく、認識の対象となるものではなく、究極的に平等であり、変化せず、破壊されないもので、ただ一つ心のみだから「真如」と名づける。
あらゆる言葉は仮のもので実体は無く、ただ妄念によって存在するだけであり、捉えることのできないものなので、「真如」と言っても姿があるわけではなく、言葉の極みであり、言葉によって言葉を否定するのである。この真如自体は否定するものがない。あらゆるものはすべて真だからである。また、なにか付け加えるものもない。あらゆるものはすべて同じく如(あるがまま)だからである。
まさに知るべきである。あらゆるものは言葉で説けず、思念することもできないので「真如」と名づけるのである。

問い。もしも、心真如がそのような意味だとしたら、人々はどのようにしてそれにしたがい、しかもそれに入る事ができるのだろうか。
答え。あらゆるものは、言葉で説くと言っても、説く人も説くものも存在せず、思念すると言っても、思念する人も思念する対象も存在しないと知ったならば、これがしたがったことであり、思念を離れたならば、これが入ったということである。