第四段 修行信心分


(修行信心分)(p24)

解釈分を解説しましたので、次に修行信心分を説明します。

 

(a)ここでは、まだ心の定まっていない人のために、信心の修行について述べています。

 

何への信心を、どのように修行するのでしょうか?

 

簡単に信心を説明すると、それには4種あります。それは、どのような4種でしょうか?

 

⑴一つめは、根本。自らの心が真如であると信じることです。真如の法を願い、想うために。

 

⑵二つめは、仏に無量の功徳があると信じることです。いつも仏を想って親しく居り、供養し、恭敬して、自らの善なる力を起こし、一切智を願い求めるためです。

 

⑶三つめは、法に大きな利益があると信じることです。いつも想って、諸々の波羅蜜を修行するためです。

 

⑷四には、僧たちは正しく自利と利他を修行すると信じることです。いつも喜んで、様々な菩薩たちに親しく近づいて、如実の法を学び求めるためです。

 

 

 

(p25)(b)修行には5つの門があって、信心を完成させてくれます。その5つとは何でしょうか?

1つめは布施門、2つめは持戒門、3つめは忍辱門、4つめは精進門、5つめは止観門です。

 

⑴どのように布施門を修行しますか?

もしも、求めている者を見れば、自分の持っている財産を、自分の力に合わせて与えなさい。自分のケチで欲張りな心を捨てて、相手を喜ばせます。

もしも、災厄や困難にあって恐怖や危機に迫られている人を見れば、自分の力に合わせて恐怖や不安を取り除いてあげなさい。

もしも、法を求める人が来れば、自分の理解に合わせて、良い方法で説明してあげなさい。財産や名誉、尊敬をむさぼり求めてはいけません。ただ、自利利他(自分と相手の幸せ)を想い、功徳を菩提(さとり)に廻向するためです。

 

⑵どのように持戒門を修行しますか?

それは、殺さず、盗まず、淫せず、二枚舌を使わず、悪口を言わず、真実を語り、おべっかを言わず、貪らず、嫉妬せず、欺かず、へつらわず、怒らず、ありのままにものを見ることです。

さらに、出家者は煩悩を滅するために、さらににぎやかな場所を離れ、常に静かな環境に居て、小欲知足、托鉢等の修行をし、さらに小さな罪にも心に畏れを感じて悔い改め、仏の定めた禁戒を軽んじてはいけません。

また世間の人が嫌がるような事はせず、人々に罪をつくらせるような事をさせないためです。

 

⑶どのように忍辱門を修行しますか?

それは、他人から悩まされる事には耐えて、仕返しをしてやろうと思わない事です。

また、成功や挫折、汚辱や名誉、称讃や非難、苦しみや楽しみ、などの事に耐える事です。

 

⑷どのように精進門を修行しますか?

それは、様々な善を行うには、怠ける心を起こさず、志を立てることは堅く強く、怯えや弱さを離れることです。

「永遠の過去から輪廻をめぐり続け、むなしくあらゆる身体とこころの大きな苦しみを受け続ける。それにどんな良い事があるのか?」と想うべきです。

ですから、まさに努力して、様々な功徳を修めて、自利利他(自分の幸せと他者の幸せ)を実践し、早く苦しみを離れましょう。

 

また次に、もしも、信心を修行していても、前世以来の、多くの重い罪や悪い行いの障害があるために、邪悪な悪魔や鬼のために悩まされ、あるいは世間の事務のしがらみにまとわりつかれ、あるいは病気の苦しみのために悩まされる。

このような多くの障害があります。

そのときには、勇猛精進し、昼に夜に諸仏を礼拝し、誠心に懺悔し、勧請し、随喜して、菩提に廻向することです。

いつも休まず続けていれば、諸の障害をのがれることができます。それは、善を行う能力が増すからです。

 

⑸どのようにして止観門を修行しますか?

いわゆる止とは、一切の認識対象(境界相)を止めて、奢摩他(シャマタ)観にしたがうということです。

いわゆる観とは、つまり世界の姿(因縁生滅相)を分析して毗鉢舎那(ビバシャナ)観にしたがうということです。

どのように、したがうのでしょうか?この2者を段々と修習して、併せて行うならば、どちらも実現するのです。

 

 

もし、止を修行しようとする者は、静かな環境を選び、正しい姿勢で坐り、心を正します。

そして、呼吸にも、ものにも、空間にも、地水火風にも、見聞きするもの、感じるものにも意識を置きません。

あらゆる想いが起こるたびに取り除き、また除いているという意識も残さないようにします。

一切の現象は本来無相なので、刹那ごとに生じたり滅したりすることはありません。

 

また、私達は心の外の存在によって、心の中に世界をイメージします。その後、心で心を除こうとしてもできません。

気が散ったときは、意識を集中して、正しい思考に入るのです。

この正しい思考とは、大切なことですが、「ただ心のみであって、認識している対象は存在しない。」ということです。

そして、その心もまた、自相は存在しません。いずれの時かに、何かを得たり、失ったりすることはありません。

 

また、坐禅から立って、動いたり止まったり動作をする時、どんな時でもいつでもやり方を工夫して、それを観察します。

長く続けて慣れてくれば、その心を安定させることができます。

心が安定すると、だんだん心が鋭くなって、真如三昧の状態に入ります。

そして、深く煩悩を解消し、心を信じる力が増大して、もう心の状態が後戻りしなくなります。

 

ただし、疑惑や不信をもっていたり、けなしたりする人、重い悪業の障害がある人、傲慢な人、怠け者は除きます。

このような人は真如三昧に入る事ができません。

 

また次に、真如三昧に入る事で、「世界は一つのすがた(法界一相)」だと知ります。

つまり、あらゆる仏様の、法(ダルマ)そのものである身体と、人々の身体は一体で無二なのです。それを「一行三昧」と呼びます。

ですから、これは大切なことですが、「真如が三昧(サマーディ)の根本」なのです。

もし、人が修行を続けていれば、徐々に無限の三昧を生み出すことができるでしょう。

 

 

また、修行する人に、善を行う力が無いと、悪魔、外教、鬼神によって悩まされます。

たとえば、坐禅中に姿を現して恐怖に襲われ、あるいは美しい男女の姿で現れます。

 

その時は、「ただ心のみ」と想いましょう。

 

認識対象はそれによって消え去って、悩まされません。

 

 

また、神様や菩薩の姿で現れ、また仏陀の姿で現れます。

神仏の美しい姿で、陀羅尼を説いたり、また布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を説いたり、平等・空・無相・無願・無怨・無親・無因・無果・究極の空、これが真の涅槃だと説きます。

そして、修行者に運命や過去の事を知り、また未来の事を知らせます。

さらに、他人の心を知る能力、巧みな話術を得させて、人々に世間の名声や財産に執着させます。

 

また、修行者にしばしば怒ったり、喜んだり、心が安定しないようにさせます。

また、慈愛の心で満たし、睡眠を多くし、多くのわずらいや病気を得させて、その心を怠けさせます。

 

あるいは、突然頑張ったり、またすぐ止めたりし、心に不信感を持たせ、疑い、考えすぎさせます。

あるいは、根本の大事な修行をやめて、細々とした事をさせます。

 

もしくは、世間の事務に執着させ、しがらみにまとわりつかせます。

 

また、修行者に様々な三昧を少しだけ得させます。

しかし、これはみな、外教の体得するもので、真の三昧ではないものです。

 

あるいは、また修行者に一日、もしくは二日、もしくは三日から七日禅定させ、自然の香美な食べ物や飲み物を得させ、心身を快適で喜ばせ、飢え渇きもない。その禅定に執着させます。

 

あるいは、修行者に食欲を極端にさせ、食べ過ぎたり、絶食したりして、体調を悪くさせます。

 

このような事が有るので、修行者は常に智慧を働かせて観察して、その心が邪悪な網にとらわれないようにしないといけない。

勤めて正しい思考を持ち、得ることなく、執着しなければ、このような様々な業障から離れる事ができるでしょう。

 

これは大切なことですが、外教が行う三昧は、みな目に入るものへの執着、自我への執着から離れないのです。それは、彼等の三昧は世間の名声、利益、名誉を得ることにとらわれているからです。

 

しかし、真如三昧は主観(自我)にも客観(対象世界)にもとらわれません。

また、三昧に入っていない時でも怠けたり傲慢にならないので、修行者の煩悩は段々と薄くなっていくのです。

 

もし、人々が真如三昧を実践しないで悟りを得ると言うことは、あり得ないことです。

世の中の色々な三昧を行って、その喜びに執着を起こし、自我意識によってこの世界(三界)に繋がれ、外教と同じになるでしょう。

もし、良い仲間の助けを離れると、すぐに外教の執着を起こすものです。

 

 

(は)また次に、精進し勤めて、一心に真如三昧を行うものは、現世でも十種の利益を得

ることができます。その十種とは何でしょうか?

1、常に十方世界の諸仏・諸菩薩によって護られる。

2、諸魔、悪鬼からの恐怖を受けることがない。

3、九十五種の外教や鬼神によって惑わされない。

4、とても深い法(ダルマ)を批判することがなくなり、重罪や過去の業(カルマ)に

よる障害も徐々に薄くなっていく。

5、一切の疑念と、様々な、悪い心の観察思惟が無くなる。

6、様々な如来の悟りの境地への信が増強される。

7、憂いや後悔から離れ、生死輪廻の中にありながら勇猛で怯むことがない。

8、その心が柔和になり、驕りや傲慢を捨てるので、他人の為に悩まされない。

9、まだ真如三昧の定(サマーディ)を得ていなくても、あらゆる時、あらゆる存在に

対しての煩悩を減らす事ができ、世間的な快楽を楽しまない。

10、もし真如三昧を得ることができれば、外界の一切の音声に驚かされない。

 

 

(に)また次に、もしある人が、ただ止だけを修行していると、次第に心は沈没し、あるいは怠け心が起こって、人々が善くなる事を願わなくなり、慈悲の心から遠ざかってしまいます。ですから、観の修行をするのです。

 

観を修習する者は、「一切世間の、作られた存在(有為法)は、ずっと同じ状態で留まることはない。すぐに変化し、壊れるもの。一切の心の動きは刹那ごとに生まれ、滅する。これが、苦なのだ。」と観じるのです。

次に、「過去に認識していた存在(法)は、恍惚として夢のようだ。」と観じるのです。

次に、「現在に認識している存在は、あたかも電光のようだ。」と観じるのです。

次に、「未来に認識する存在は、まるで雲が忽然と発生するようだ。」と観じるのです。

そして、「世間一切の身体にあるものは、ことごとく皆不浄で、様々な穢れ汚れであって、一つとして楽しむべきものはない。」と観じるのです。

 

このように思うのです。

「一切の衆生は、無限の過去から、誰もが根源的な無知(無明)が染みこんで(薫習)しまっているので、心の働きにより生まれ、また滅んでいる。

今すでにあらゆる心身の大きな苦しみを受けて、現在もなお追いつめられている。未来の苦しみもまた限りがない。

その苦しみを捨てたい、離れたいと思っても難しい。しかも、それに気づいてもいない。

人間とはこうしたものだ。本当に悲しいものだ。」

 

こうした考えになると、勇気を出して大誓願を立てるのです。

「願わくは、私の心が分別を離れ、十方世界に遍在して、あらゆる善行・功徳を行い、未来の果てまで無限の方法(方便)を使って、あらゆる苦しんでいる人々を救い出し、涅槃という最高の悟りを得てもらおう。」

 

このような願いを起こすから、いつでも、どこでも、あらゆる善行を自分の能力に随って行い続けるし、怠ける心が起こりません。ただし、坐す時、止に専念するは除きます。

しかし、それ以外の時はいつでも、自分は何をすればよいか?何をすべきでないか?を観察しつづけます。

 

 

動いている時も、止まっている時も、横になっている時も、起きている時も、いつでも止観をともに行いましょう。

というのは、あらゆる存在は、その本性として生まれたり滅したりしません。

けれども、因果関係が集まり、善悪の行為ををすると、苦しみや楽しみといった結果(報)が起こることは、無くなりませんし、関係性は壊れない、と考えるからです。

因果関係による善悪の行為の結果を考えるけれども、けれどもなお、本質として得るものは無い、と考えます。

 

もし、止を修行すれば、人々は世間に執着することから離れることができ、二乗(声聞・縁覚)で解決していない、輪廻に対する恐れを捨てる事ができます。

もし、観を修行すれば、二乗の大慈悲心を起こさないという狭い心の問題を解決し、人々が善を行わなくなる問題が無くなります。

 

以上のような理由で、この止観門は、お互いに助け合って離れないのです。

もしも止観共に具わらなければ、ちゃんと悟り(菩提)の道に入ることはありません。

 

 

⑹また次に、人々がはじめてこの法を学び、心を信じようと思っても、心が弱い場合。

「自分はこの地球(娑婆世界)に住んでいるのだから、直接仏陀にお会いして、親しく教えを受けたり、供養することができない」。と、不安に恐れる。「だから、心を信じるなんてできない。」と言って、意欲が無くなることを恐れる方は、これを知ってください。

 

如来の優れた方法があって、信じる心を守ってくれます。

それは、意識を集中して、仏陀を想うことにより(因縁)、仏陀の人々を救うという誓願に随って、別の宇宙の仏陀の世界(他方仏土)に生まれ変わることができ、いつも仏陀にお会いすることで悪道(地獄・餓鬼・畜生)を離れます。

 

経典に説かれているように、「もし人が専ら西方極楽世界の阿弥陀仏を念じ、修行した善行を廻向して、その世界に生まれたいと願い求めるならば、即座に生まれ変わる(往生)することができます。」

いつでも仏陀とお会いできるので、修行が後退することがありません。

もし、仏陀の真如法身を観じて、常に努力して修行していれば、遂には仏の世界に生まれ、聖者の境地に入ることができるからです。