第三段 解釈分


(解釈分)

以上、立義分を述べたので、次に解釈分を説明します。

 

解釈分は三章に分かれます。その三章とは。

一、顕示正義(正しい教えの説明)

二、対治邪執(邪な執着の解決)

三、分別発趣道相(実践修行の道程)

 

(a)顕示正義では、「一心」について2つの視点から理解します。その2とは何でしょうか?。

 

(a1)1つめは心真如門、2つめは心生滅門です。

 

是の2つの門は、どちらも、それぞれがあらゆる存在(法)を含んでいます。

これは、どういう意味でしょうか?

 

それは、この2つの門は違うものではないからです。

 

⑴心真如とは、一法界であり、あらゆる存在を含む、その総相であり、教え(法)の生じる門の本体です。

すなわちそれは心の本性は、不生不滅であるということです。

 

あらゆる存在は、ただ心のはたらき(妄念)によって違いがありますが、もしもそのはたらきを離れると、そのままあらゆる世界のすがた(一切境界の相)はありません。

 

(ろ)このため、あらゆる存在は本来、ことばのすがたを離れ、文字のすがたを離れ、心が認識する対象のすがたを離れ、究極的には一体であって、変化のあることはなく、壊すことのできない。唯だそれはひとつのこころ(一心)のみなのです。

ですから真如(ありのまま)と呼びます。

 

あらゆることばは仮の存在であって実体はなく、ただ心のはたらきですから、得られるものではありません。

ですから、真如といってもすがたがあるわけではありません。

 

言ってみれば、ことばの果てですから、ことばでことばを追い遣っています。

 

この真如という存在には否定するものは何も有りません。

あらゆる存在はみな、まこと(真)だからです。

 

また、新たにつけ足すものもありません。

あらゆる存在はみな、そのもの(如)だからです。

 

ですから、知ってください。あらゆる存在はことばにすることができず、おもうこともできません。

そのため、真如と呼んでいます。

 

問い。

もしも、そのような意味でしたら、人々は、どのようにして理解したり、悟りに入ることができるのでしょうか。

 

答え。

あらゆる存在は、ことばにしようとしても、できることがありませんし、おもおうとしてもやはりできることが無いと知ること。これが理解することです。そしておもうことを離れれば、それが悟りに入ったということです。

 

 

(は)また次に、「真如(ありのまま真実)」の言葉の説明をすると、二つの意味があります。

 

その二つとは何でしょうか。

一つ目は「ありのままに空(実体ではなく、空である)」です。究極的には、それが真実そのものだからです。

二つ目は「ありのままに不空(むなしいものではない)」です。ありのままに悟りの智慧の功徳が具わっているからです。

 

ここで言う空とは、もともと、あらゆる汚れと結びついていないということです。

言ってみれば、あらゆる存在をラベル付けし、分断する世界から離れています。

それは、虚構妄想の心のはたらきが存在しないからです。

 

これは大切な事ですが、真如そのものは、有るのではなく、無いわけでもなく、有るのでは無いのでもなく、無いわけでは無いのでもなく、有ると無いの両方でもなく、同一でもなく、異なっているのでもなく、同一で無いのでもなく、異なって無いのでもなく、同一と異なっているのどちらでもないのです。

 

要するに、すべての人間には妄想・思考があるので、瞬間瞬間に分別作用が起こるけれども、そうした働きは真如とは無関係です。

だから、空であると言います。

もしも妄想・思考を離れてしまえば、それ以外に否定するものは無いからです。

 

また、ここで言う不空とは、法(真如)そのものは空であって、妄想・煩悩が無いことが顕らかになれば、

この真の心は、永遠不変であり、清浄な法が完全にはたらいているため、不空(むなしいものではない)と言います。

そこには、何一つ付け加えるものもありません。

妄想分別を離れた境地は、唯だ悟りとだけ結びついているものだからです。

 

 

⑵(い)心生滅、と言いますのは、我々の迷いの心に真如を含んでいる「如来蔵」という構造なので、心の生滅変化があるのです。

「生まれも滅びもしない」と「生まれ滅びる」が合わさって、一つではなく、別のものでもないものを、アーラヤ(蔵)識と呼びます。

このアーラヤ(蔵)識は、「あらゆる存在を含む蔵であり、またあらゆる存在を生み出す」存在です。そしてそこには二つの意味があります。

 

その二つとはなんでしょうか?

一つ目は悟り(覚)、二つ目は迷い(不覚)です。

 

(いa)ここで悟りという意味は、心そのものは「ラベル付けし、分断する働き(分別)」とは関係なく存在しているという事です。

その「関係なく存在している」というあり方は、この空間すべてに行き渡っており、普遍的で、根源的な姿(法界)は一つ生命であり、そのことを如来(ブッダ)の一つの生命である身体(平等法身)と言います。

 

(い1)この、心そのものが仏の身体であるということから見るので、人は元々、悟っている(本覚)と言います。

どうして、こういう事を言うのかというと、修行して得る悟り(始覚)に対して説明するためですし、本来悟っている悟りと、修行して得る悟りは同じものです。

 

 

(い2)始覚について言えば、人は元々悟っている、とは言っても迷い(不覚)があります。

そして、迷いがあるから始めて悟りを得る(始覚)という事が有るのです。

 

また、これは心のみなもとまで、すべて悟るので究竟覚とも言います。

心のみなもとまでは悟らない悟りは、究竟覚とは言いません。

 

 

(い一)これはどういう意味でしょうか?

1.凡人は、ある瞬間に悪い心が起こるのを悟ると、次の瞬間にその心を止めて、悪い心が起こらないようにします。

これも、悟りとは言いますが、実体は迷い(不覚)です。

2.声聞・縁覚の二乗が心を観察する智慧と、成り立て(初発意)の菩薩は、こころの変化を悟るので、こころの変化から自由になります。

粗い分別や執着(麁分別執著)を離れているから、悟りに似ているという意味で相似覚といいます。

3.法身の菩薩は、こころの働きの持続を悟るので、こころの働きの持続性から自由になります。

分別や執着を離れるので、分に応じた悟り(随分覚)といいます。

4.菩薩の位の究極では、修行の内容が満たされ、悟りを得る直前の瞬間(一念相応)、こころの発生を悟るので、こころが動き出す事がありません。

最も繊細なこころも離れるので、心の性質を見る事ができ、心が変化しなくなる事を究竟覚と呼びます。

 

 

ですから、「もしも心が働かない(無念)と観れば、その人は悟りの智慧へ向かう」と説かれています。

また、心が初めに起こる瞬間(初起)と言いましたが、心の初めの状態(初相)を知っている人は居ません。

にも関わらず、「初めの状態を知る」と言ったのは、つまり「心が働かない状態」を言います。

ですから、すべて人間の状態はさとり(覚)とは言えません。

すべての始まりからずっと、一瞬一瞬、心は働き続き、まだ止まった事がないから、これを「始まりの無い暗闇(無始の無明)」と言います。

もしも「心が働かない状態」になれば、「心の姿(心相)の発生・継続・変化・消滅(生住異滅)」を知る事ができます。

「心が働かない状態」と「心の姿の発生・継続・変化・消滅」は同じことだからです。

さらに言えば、実際には始覚の「発生・継続・変化・消滅」という違いがあるわけではありません。その四つの姿は同時に起こっているものなので、単独であるわけではなく、さらに本来は、すべてが一体で、ただ一つの覚りだからです。

 

〔随染本覚〕

(い1)次に、「本来からの覚り(本覚)」は(無明に)汚染されている状態では、2つの姿があります。

これは「本来からの覚り」と別なものではありません。

その2つとは何でしょうか?1つめは「智慧による浄化(智浄相)」、ふたつめは「思考を超えた働き(不思議業相)」です。

 

(い一)「智慧による浄化」とは、法(ダルマ)の力による働きかけ(薰習)による修行で、修行内容が完成するので、「アーラヤ識(和合識)」の姿が破壊され、心の働きが続く姿(相続心)を消滅させ、さとりそのもの(法身)があらわれることです。

それは、智慧が純浄だからです。

 

これはどういう意味でしょうか?

心・意識全体の状態が無明だからです。

しかし、その無明の姿である心全体が、さとりの性質ですから、滅することができるものではありませんし、滅せないものでもありません。

 

大海の水が、風によって波立つ時、水の働きと風の働きは一体です。

しかし、水は本来動いているものではありませんから、もしも風が止めば、動きは止まり、水本来の性質は無くならず残ります。

 

同じように、人間の「本来の清浄な心(自性清浄心)」も無明の風によって動かされ、心と無明が一体となっています。

しかし、心は本来動くものではありませんので、もしも無明が消滅すれば心の働きの連続も消滅し、智慧の性質は無くならず残るのです。

 

(い二)ふたつめの「思考を超えた働き(不思議業相)」とは、智慧の浄化によって、すべてが完全で調和した姿を形成することです。

いわゆる無限の徳の姿は、常にとぎれることなく、人々の能力に応じて、自ずからあいはたらき、様々なかたちで現れ、利益を得させるのです。

 

(い3)次に、さとり(覚)そのものの姿には4つの「大」という意味があり、それは虚空や清らかな鏡にたとえられます。

 

(い一)その4つとは何でしょうか?

⑴「ありのまま空の鏡(如実空鏡)」あらゆる心と対象世界の姿を離れ、存在が顕現することなく、映し出すものが無いからです。

 

⑵「因として働きかける鏡(因薰習鏡)」これは、ありのままの真実のことです。

あらゆる世界の存在は、すべてこの中に現れるもので、出ていかないし、入ってこないし、失われないし、壊れない、永遠の一心です。

あらゆる存在は、すなわち真実な性質のもので、また一切の無明によって汚染されないものなので、智慧の本質は不動で、さとりをそなえて人々に働きかけるからです。

 

⑶「無明を離れた法の鏡(法出離鏡)」

ダルマ(法)は空しからざるものということです。

煩悩による障害と知識による障害を離れ、アーラヤ識を離れて、淳浄で明らかだからです。

 

⑷「縁の働きかけの鏡(縁薰習鏡)」

法は無明を離れているから、あらゆる人々の心を照して、善を行う能力を育て、想いにしたがって姿を示現するからです。

 

(いb)(い1)よく、「不覚・迷い」と言いますが、それは「ありのままの存在(法)は1つ」だと知らないために、起こっている心なのです。

しかし、「不覚」という意識に実体はありませんから「本覚・本来の覚り」と別のものではありません。

それは、道に迷った人が方角を意識するから迷ってると思うし、もしも方角を意識しなければ、迷いということも無くなるようなものです。

人の「不覚」もこういうもので、「覚り」を意識するから迷うのです。

もし、「覚り」を離れれば、「不覚」もありません。

 

しかし「不覚・妄想」の心があるから、言葉や意味を考える事もできますし、「覚り」について説明することもできます。

もしも「不覚」の心が無ければ、「覚り」そのものについて説明する事もできません。

 

 

 

(い2)次に、「不覚」であるために3種類の相が生まれ、しかもその「不覚」と連動して離れません。

 

 

(い一)その3種類とは何でしょう。

1つ目は「無明業相(無明によるはたらきの相)」です。

「不覚」であるために心が動くことを、「業(はたらき)」と呼びます。

覚れば心は動きませんし、動けばつまり「苦」があります。

原因と結果は切り離せませんから。

 

 

(p8)(い二)2つ目は「能見相(見る側・主観)」です。

心が動いているので「能見・主観」が存在します、動いていなければ「能見」もありません。

 

 

(い三)3つ目は「境界相(見られる側・客観)」です。

「能見」があるから、「境界」は妄想として現れます。

「能見」が無ければ「境界」も無いのです。

 

そして「境界」という「縁」が有るから、次に6種類の相が発生します。

その6種類とは何でしょうか。

 

 

(い一)1つ目は「智相(知恵の相)」です。

「境界」があるから心が動き、「愛(好き)」と「不愛(嫌い)」に「分別」するので「智相」といいます。

 

(い二)2つ目は「相続相(持続する相)」です。

「愛・不愛」の「智相」があるから「苦しみ」と「楽しみ」という感覚が発生します。

そしてそれは心に記憶として残り、心に連動して消えることが無いので「相続相」といいます。

 

(い三)3つ目は「執取相(執着する相)」です。

「相続相」があるから「境界(客観・対象)」を思い浮かべて「苦しみ」「楽しみ」を持ち続けます。

そして、心に執着を起こすので「執取相」といいます。

 

(い四)4つ目は「計名字相(名前をつける相)」です。

妄想・執着があるから、仮そめの名前・言葉を作り、「分別・ラベル付け」するので「計名字相」といいます。

 

(い五)5つ目は「起業相(はたらきを起こす相)」です。

「名前・文字」があるからその名前の対象を追い求め、執着して様々な「業(はたらき)」を起こすために「起業相」といいます。

 

(い六)6つ目は「業繋苦相(業で苦につなげられる相)」です。

「業(はたらき)」の結果を受けて、自由にならないから「業繋苦相」といいます。

 

「無明」があらゆる「煩悩」「存在(法)」を生み出している。これが知って欲しいことです!

なぜなら、一切の「煩悩」「存在(法)」はみな「不覚の相」だからです。

 

 

(いc)また次に、「覚(覚り)」と「不覚(迷い)」には2種類の性質があります。

その2とは何でしょうか?1つ目は「同じという性質」2つ目は「異なるという性質」です。

 

 

(い一)「同じという性質」とは、例えば色々な陶器が、どれも同じ微塵の性質を持っているようなものです。

同じように、無漏(さとり)と無明(まよい)とによる様々な業(働き)による幻は、いずれも同じ真如の性質なのです。

 

ですから、経典には「この真如であるという意味の理由で、すべての人々は本来永遠な存在であり、涅槃(さとり)の中にいる」と説かれています。

菩提(悟りの智慧)の法は実践するという性質のものではなく、作り出すという性質のものでもなく、つまりは、手に入れるというものではありません。

 

ですから、ほとけのかたちやすがたは眼に見られるものではありません。

にもかかわらず、かたちやすがたを見ることがあるのは、ただ煩悩の働きが作り出す幻に従ったということです。

智慧の性質は見る事ができないものなのです。

 

 

(い二)「異なるという性質」とは、様々な陶器がそれぞれ同じではないようなものです。

この喩えのように、無漏(さとり)と無明(まよい)の違いは、随染業の差別(各人の煩悩の違い)、性染の差別(根本無明の分別作用による差別)なのです。

 

 

(p9)(ろ)(ろa)また次に、「生滅する心がどのような構造で活動」するのか?

いわゆる人間(衆生)というものは、心によって意と意識が働くのです。

 

それは、どのような意味でしょうか?

心、つまり「阿黎耶識に依って無明がある」と経典に説かれています。

 

心・阿黎耶識が不覚(まよい)であれば分別の働きが起こり、能見相(主観)が起こり、客観世界が現れ、その世界を取って分別し、念を起こして継続していくため、これを「意」と呼んでいます。

 

この「意」はまた5つに分けられます。その5つとは何でしょうか?

 

 

(ろ1)1つ目は業識と言います。

それは無明の力によって、不覚の心が動きだすからです。

 

(ろ2)2つ目は転識です。

心が動くと、主観の相が現れるからです。

 

(ろ3)3つ目は現識です。

ここであらゆる境界(対象世界)が現れます。まるで鏡に姿が映し出されるようなものです。

現識もそのようなもので、五感の対象(五蘊、色・声・香・味・触)に相対すると即座に現れて、時間の前後はありません。

いつでも、無意識に働いていて、常に自分の前に現れるのです。

 

(ろ4)4つ目は智識です。

煩悩の汚れや清浄を分別するからです。

 

(ろ5)5つ目は相続識です。

智識で起こった分別が維持され、消えることがないため、無限の過去世からの善悪の行為が維持され、失われないからです。

また、現在と未来の苦楽の果報(行為の結果)を成熟させて、間違えることがないのです。

さらに、現在と過去のことを突然思い出したり、未来の事を無意識に考えたりさせます。

 

したがって、世界は虚仮であり、唯だ心が作っているものです。心の他に物質的な対象はありません。

 

これは、どのような意味でしょうか?

あらゆる存在はみな心がはたらき、妄想分別することで生ずるからです。

一切の分別は、自分の心を分別しているのです。

心が心を見なければ、得られる姿は無いのです。

これは知ってください。世界のあらゆる現象は、すべて衆生の無明と妄想分別に依って存続しています。

ですから、あらゆる存在は、鏡の中の姿に実体が無いようなものです。唯だ、心の虚妄です。

心が働けば様々な存在が生まれ、心の働きが滅すれば、様々な存在も滅するからです。

 

(p10)(ろc)また次に、意識とは、相続識の事です。

人々の執着が深い事に依って、「私(我)」「私のもの(我所)」という概念を作り、とらわれてどこまでも追い求め、色・声・香・味・法という六塵を分別するのです。

これを意識と呼びます。また、分離識や分別事識とも言います。

なぜなら、この識はものの見方(見惑)や愛執(修惑)の煩悩のために増長していく性質だからです。

 

無明が心に薰習することによって生起するこの識は、凡夫の理解できるところではありません。

また、二乗(声聞・縁覚)の智慧で理解できるところでもありません。

いわゆる菩薩であって、正信の位で発心して、心を観察し、さらに法身を証して見道すれば、少し理解する事ができます。

さらに菩薩の究極の位(十地)になってもすべては理解することはできません。

ただ、仏陀だけがすべてを理解するのです。

 

それはどうしてでしょうか?

この心は、本来その性質は清浄です。にもかかわらず、無明があります。

無明のために染められて、その染心があります。

染心があるといっても、心は永遠不変なものです。

このために、心の性質はただ仏陀だけが理解するというのです。

 

つまり、心の本性は常に妄念を離れているので、不変なものです。

しかし、心がただ一つの法(ダルマ)の世界(一法界)であることを認識していないので、心はそうならず、忽然と妄念が起こることを無明というのです。

 

 

(ろd)染心には六種あります。その六種とはなんでしょうか?。

 

(ろ1)1つ目は、執着と結びついた染「執相応染」です。

二乗(声聞・縁覚)が解脱したり、信相応地(十住・十行・十廻向)に達すると、ここから離れることができます。

 

(ろ2)2つ目は、絶えず妄念が執着と結びついて起こる染「不断相応染」です。

信相応地で方法を学び修行して、段々と捨ててゆき、浄心地(十地の初地)に至って、完全に離れる事ができます。

 

(ろ3)3つ目は、好き嫌いという感情の分別に結びついた染「分別智相応染」です。

具戒地(第二地)で段々と離れ、最後は無相方便地(第七地)で完全に離れる事ができます。

 

(ろ4)4つ目は、認識対象が心に映し出される、結びつかない染「現色不相応染」です。

色自在地(第八地)で離れる事ができます。

 

(ろ5)5つ目は、主観が心にある、結びつかない染「能見心不相応染」です。

心自在地(第九地)で離れる事ができます。

 

(ろ6)6つ目は、根本の無明という、結びつかない染「根本業不相応染」です。

菩薩尽地(第十地)から如来地(仏陀・悟り)に入ることができるとき、離れる事ができます。

 

先ほどの「心がただ一つの法(ダルマ)の世界(一法界)であることを認識していない」という意味は、信相応地から、心を観察し学び実践して浄心地に入り、能力に応じて染心を離れることができ、そして如来地に至って、ようやく完全に離れることができるからです。

 

 

「結びついた(相応)」という言葉の意味は、心と認識対象は異なっているが、染・浄の差別によるのであり、主観と対象は本来同じであるということです。

「結びつかない(不相応)」という意味は、「心」に即した「不覚」なので、両者は別なものではなく、認識対象と無関係だからです。

 

 

また、「染心」という言葉の意味は、煩悩が智慧の邪魔をする(煩悩障)ということです。

ありのままであり根本である智慧(真如根本智)を妨げるからです。

 

「無明」という言葉の意味は、対象についての智慧が明瞭でないことが、悟りの障害となること(所智障)です。

悟りを得た後に、世間での活動で働く智慧(自然業智・後得智)を妨げるからです。

 

これはどのような意味でしょうか?

染心があるから主観(能見)、客観(能現)が発生します。

妄想によって対象世界(境界)を作り、一体(平等)という本性と違ってしまうからです。

 

あらゆる存在(一切法)は常に静寂で動くことはありません。

無明の迷い(不覚)による妄想が現実の存在(法)と異なっているのです。

 

世界の一切の認識対象(境界)それぞれに全てのことを知る智慧はもたないからです。

 

 

(は)また次に、心の生滅の相について分類すると2種類になります。

その2つとは、1つめは麁(粗い)です。心(世界)と対応して生滅するからです。2つ目は細(こまかい)です。心(世界)と対応して生滅していないからです。

 

(はa)また、麁の中の麁は凡人の心境であり、麁の中の細とそして細の中の麁とは菩薩の心境です。細の中の細は仏陀の心境です。

 

(はb)この(麁と細という)2種類の生滅は、無明の薫習(働きかけ)によって存在しています。

それは、細が無明の薰習を因(直接原因)としていますし、麁は縁(間接原因)としています。

細が無明の薰習を因としているというのは、迷いの状態にある、という意味です。

麁が縁(間接原因)にしているというのは、迷いの心がこの世界を作り出し、その世界に影響されている、という意味です。

 

もし、無明という因が無くなれば、世界という縁も消滅します。

因(直接原因)が滅すれば世界と対応していない心も消滅しますし、

縁(間接原因)が滅すれば世界と対応している心も消滅します。

 

問い。

もし、心が消滅したら、何も残らないのではないか?

反対に、なにか残っているのならば、それは究極の悟りとは言えないのではないか?

 

答え。

ここで言っている消滅とは、心の相の消滅です。

心体(心そのもの)が消滅するわけではありません。

 

風は水によって動く姿(相)が現れるようなものです。

もし、水が無くなれば風と動く姿(相)は切り離され、より所を失います。

しかし、水は無くならないので、風と動く姿(相)は存続しています。

 

ただ、風が止むから動く姿(相)もそれに従って消えます。

これは、水が無くなったわけではありません。

 

無明もまた同じことです。

心体によって動きます。

もし心体が消滅すれば、人間そのものも無くなり、より所を失います。

心体が消滅しないから、心の相も続いていくことができます。

ただ、根源的な無知が消滅すると心相も消滅します。

心智(悟りの智慧)が消滅するわけではありません。

 

 

(はc)また次に、心は4種類の姿(法)をとって薰習することがあるので、染法(悟りを妨げるもの)と浄法(悟りへ向かわせるもの)がそれぞれ起こり、無くなることがないのです。

 

その4種類とは何でしょうか?

1つめは「浄法」。これを「真如」と言います。

2つめは「一切の染因」。これを「無明(根源的無知)」といいます。

3つめは「妄心」。これを「業識(主観)」といいます。

4つめは「妄境界」。いわゆる「六塵(対象世界)」です。

 

 

薰習という言葉の意味を説明します。

世間の衣服には、本来は香りはついていません。

もし、誰かがお香の煙をたくと、服に香りがつくようなものです。

 

同じように、真如の浄法にも本来は染心はありません。

ただ、無明によって薰習するので染という相(姿)になります。

 

無明染法にも本来は浄法はありません。

ただ、真如によって薰習するので浄という用(働き)があります。

 

(は1)どのようにして薰習し、染法を生み出し持続させるのでしょうか。

すなわち、真如という存在(法)があるので、それに依って無明があります。

 

無明染法が因(直接原因)となって、真如に薰習します。

薰習するから妄心(主観)が生まれます。

妄心(主観)がまた無明に薰習します。

 

真如の法を理解していないので、不覚(まよい)の心が起こり、妄境界が現れます。

妄境界は染法の縁(間接原因)があるので、また妄心(主観)に薰習して、これに執着して様々な業(カルマ)を造り出し、一切の身心等の苦を受けさせるのです。

 

(は3)以上のうち妄境界から妄心(主観)への薰習の内容には2種類があります。

その2つとは何でしょうか?

1つめは増長念薰習(不覚の心を増大させる薰習)、2つめは増長取薰習(執着を増大させる薰習)です。

 

 (は4)妄心(主観)から無明への薰習の内容にも2種類があります。

1つめは業識根本薰習(主観から根本への薰習)です。

これは阿羅漢、辟支仏(独覚)、一切の菩薩にまでも生滅の苦を受けさせるからです。

2つめは増長分別事識薰習(分別の働きを増大させる薰習)です。

凡人の業を増やし、しがらみにつながれ苦を受けさせるからです。

 

(は5)無明から真如への薰習の内容にも2種類があります。

その2つとは何でしょうか?

1つめは根本薰習(根源的な薰習)です。

業識(主観)を生み出すものだからです。

(p13)2つめは所起見愛薰習(愛着を起こす薰習)です。

対象を分別する働きを成り立たせるからです。

 

 

(は2)云何んが薰習、浄法を起して断ぜざるや。所謂る真如の法有るを以つての故に。能く無明に薰習す。薰習の因縁力を以ての故に、則ち妄心をして、生死の苦を厭い、涅槃を楽求せしむ。此の妄心に厭求の因縁あるを以ての故に、即ち真如に薰習す。

 

自ら己性を信じ、心妄りに動じて、前境界なしと知って遠離の法を修す。実の如く前境界なしと知るを以ての故に、種々の方便、随順の行を起して、取せず、念ぜず、乃至久遠薰習力の故に、無明は則ち滅す。無明滅するを以つての故に、心起る事あることなし。起る事なきを以つての故に、境界随って滅す。因縁倶に滅するを以つての故に、心相皆尽くるを、涅槃を得て自然の業を成ずと名づく。

 

(は6)妄心薰習の義に二種あり。云何んが二となす。(は一)一には分別事識薰習たり、諸々の凡夫二乗の人等に依りて、生死の苦を厭い、力の能くする所に随って、漸く無上道に趣向するを以つての故に。(は二)二には意薰習なり。謂はく諸の菩薩は発心勇猛にして、速かに涅槃に趣くが故に。

 

(は7)真如薰習の義に二種あり。云何んが二となす。一には自体相薰習、二には用薰習なり。(は一)自体相薰習とは、無始世よりこのかた無漏の法を具す。備に不思議の業ありて、境界の性と作る。此の二義に依りて恒常に薰習す。薰習力あるを以ての故に、能く衆生をして、生死の苦を厭い、涅槃を楽求し、自ら己身に真如の法ありと信じて、発心修行せしむ。

 

問うて曰く、若し是の如きの義ならば、一切の衆生は悉く真如をもって、等しく皆薰習せん。云何んぞ有信・無信、無量・前後の差別あるや。皆応に一時に自ら真如の法ありと知って、勤修方便して等しく涅槃に入るべし。

 

答えて曰く、真如は本と一なれども、而も無量無辺の無明あって、本より已来(このかた)自性差別して、(p14)厚薄同じからざるが故に。過恒沙等の上煩悩は無明に依りて起れる差別あり。我見愛染煩悩も無明に依りて起れる差別あり。是の如く一切煩悩は無明に依りて起る所の前後無量の差別あり。唯如来のみ能く知るが故に。

 

又諸仏の法は因あり、縁あり、因縁具足して、即ち成弁することを得。木中の火性は是れ火の正因なるも、若し人の知ることなく、方便を仮らずして、能く自ら木を焼くこと此の処り有ることなきが如し。衆生も亦爾り、正因薰習の力ありと雖も、若し諸仏、菩薩、善知識等に値遇し、之れを以って縁と為さずして、能く自ら煩悩を断じ涅槃に入ること、則ち此の処(ことは)りなし。若し外縁の力ありと雖も、内の浄法未だ薰習の力有らざる者は、又究竟じて生死の苦を厭い、涅槃を楽求すること能わず。若し因縁具足すれば、所謂る自ら薰習の力あり、又諸仏菩薩等の為に、慈悲願護せらるるが故に、能く厭苦の心を起し、涅槃ありと信じて、善根を修習す。善根を修すること成熟するを以っての故に、則ち諸仏菩薩に値い、示教利喜して、乃ち能く進趣して、涅槃の道に向う。

 

(は二)用薰習とは、即ち是れ衆生の外縁の力なり。是の如きの外縁に無量の義あり。略して説くに二種あり云何んが二となす。一は差別縁、二は平等縁なり。

 

(は)差別縁とは、此の人、諸仏菩薩等に依りて初発意に初めて道を求むる時より、乃し仏を得るに至るまで、中に於て若しくは見、若しくは念ず。或は眷属・父母・諸親となり、或は給使となり、或は知友となる、或は怨家となり、或は四摂を起す。乃至一切の所作に無量の行縁あり。大悲を起す薰習の力を以つて、能く衆生をして、善根を増長し、若しくは見、若しくは聞き、利益を得しむるが故に。

 

此の縁に二種あり、如何んが二となす。一には近縁なり。速かに度することを得る故に、二には遠縁なり。久遠に度することを得るが故に是の近遠の二縁分別するに復二種あり。云何んが二となす。一には増長行縁、二には受道縁なり。

 

(は)平等縁とは、一切の諸仏菩薩皆な衆生を度脱せんと願うこと、自然に薰習して常恒に捨てず、同体智力を以つての故に、応に見聞すべきに随って而も作業を現ず。所謂る衆生は、三昧に依って、乃ち平等に諸仏を見ることを得るが故に。

 

此の体用薰習を分別するに復二種あり。云何んが二となす。一には未相応なり。謂わく凡夫と二乗と初発意の菩薩等は意と意識を以って薰習し、信力に依るが故に、而して能く修行す。未だ無分別心と、体と相応することを得ざるが故に、未だ自在業の修行と用と相応することを得ざるが故に。

 

二には已相応なり謂はく法身の菩薩は無分別心を得て、諸仏の自体と相応し、自在の業を得て、諸仏の智用と相応す。唯法力に依って自然に修行し、真如に薰習して無明を滅するが故に。

 

復次に染法は、無始より已来薰習して断ぜず、乃至仏を得て後ち則ち断ずることあり。浄法薰習は則ち断ずることあることなし。未来を尽す。此の義云何ん。真如の法は常に薰習するを以つての故に、妄心則ち滅すれば、法身顕現して、用薰習を起す故に、断ずることあることなし。