序分


八宗綱要抄

凝然大徳述

 

第一編 総論

第一章 教理の綱要

第一節 八万四千の法門

 

問い。仏教に幾つの門が有るか。

答え。釈尊の教えは数限りがないが、大まかに言えば、八万四千の法門がある。釈尊の生涯のうち五十年間。説かれた法でこれに入らないものはない。

 

問い。なぜ法門の数はそれだけ必要なのか。

答え。全生命の八万四千の煩悩を滅ぼすために、そのために法門も八万四千必要なのである。

 

問い。これらの法門は、大乗のみを指すのか、小乗にも通じるのか。

答え。大小乗、それぞれに八万四千の法門がある。『倶舎論』によれば「釈尊の説かれた法の数は八万ある」とある。それだけでなく、様々な小乗経にも多く「法は八万四千有る」と説かれている。これらはみな、小乗の説である。大乗経の中にも、盛んにこの事は説かれており、根拠は非常に多く、説明の必要も無い。そのため、大小乗の双方でみな八万四千あると言うのである。

 

 

第二節 教法の分類

 

問い。これらの法門をどのようにしてまとめるのか。

答え。法門が多いといっても、二蔵と三蔵だけであり、諸教をまとめるのも、皆なここに含まれる。また、五蔵、十蔵、十二分教などの法門もまた、三蔵の他にあるのではない。

 

問い。それでは、二蔵とは何か。

答え。一、声聞蔵、これは小乗である。二、菩薩蔵、これは大乗である。大小両乗にそれぞれ八万四千あるというのは、この意味で言っている。この二蔵の説明は『智度論』と『荘厳論』に出ており、多くの人が引用して、大小乗で区分している。

 

問い。次に、三蔵とは何か。

答え。一、素坦覧蔵(古くは修多羅といった)、契経と翻訳する(古くは単に経といった)。二、毘奈耶蔵(古くは毘尼といった)、調伏と訳す(古くは律といった)。三、阿毘達磨蔵(古くは阿毘曇といった)、対法と訳す(古くは無比法といった)。これは論議の事である。この三つを三蔵という。これは順に戒(毘奈耶)定(素坦覧)慧(阿毘曇)の三学をあらわす。三蔵は教えを説く側の分類で、三学はあらわされる内容であり、この両者ですべての法義を含み、余すところは無い。

 

問い。なぜ、このように分けたのか。

答え。釈尊は生涯、人に合わせて法を授けられた。聞く人があればすぐに法を授けて、あちらこちらで説かれている。けれども、説教の内容は三蔵の範囲を出ない。そのため、結集の時、聖者達は説教の内容を三蔵に分類し、すべて編集し終わって、それを世間に伝えた。

 

問い。この三蔵は大小乗に通じるのか。

答え。そのとおり、通じる。『荘厳論』等に詳しく書かれている通り。したがって、声聞・菩薩の二蔵にもそれぞれ三蔵がある。それは経・律・論である。

 

 

第二章 歴史

第一節 概説

 

問い。これらの教文は、歴史を通じてどのように伝えられたのか。

答え。釈尊がおられた頃は書籍を使わず、言葉を聞いてそのまま実践し、それで悟りを得ていた。釈尊が入滅されてから、はじめて経典が作られ、それが伝えられて人々の眼を開いた。ここにいたり、迦葉波たちは小乗の三蔵を畢鉢の窟塲で編纂し、弥勒菩薩たちは大乗の教えを鉄囲山で編纂した。

 

ここにいたり摩訶迦葉は聖法を受けつぎ、阿難尊者は経を受け保ち人々を助けた。末田地、商那和修はそれぞれ教えをたずさえ、優婆麴多も麗名が高かった。釈尊の入滅から百年、瓶から瓶へ水を移すように教えは受け継がれ、以上の法匠五師の功績は大きかった。

 

百年以降も様々な聖人が現れ、聖典は伝えられ、それぞれ仏法を護った。けれども、聖人が亡くなるときに教えが失われないこともない。阿難が入定したとき、商那和修はその境地を理解できなかった。商那和修が入滅したとき、多くの経が失われてしまった。

 

そうは言っても遺されたものは少なくない。その教えはまことに多い。そして、正法が伝わる千年間から末法の世に至るまで、その時と場所によって受け継がれ、広まった。インドの国々から日本まで、その他の国々は数え切れない。それぞれ聖典が広まり、仏法が興隆した。

 

 

第二節 印度

第一項 小乗二十部の分派

 

今しばらく、インド・中国・日本に仏法が広まった様子を述べるが、聞くところによると、釈尊入滅後四百年間は小乗が栄え、様々な解釈が起こり、大乗は隠れてしまって、その経典は龍宮に納められていた。

 

そのうち百年は一つの教えが伝えられた時代だが、その後様々な解釈に分かれた。それで、摩訶提婆(大天)は五事の妄言を言い、婆麁富羅(犢子部)はアートマンが実在すると主張したり、正量部、経量部は互いに議論を譲らず、西山部、北山部も異なる見解を立てて争った。ついには四百年間に二十部に分かれインド中に競い合い、さらに五百年まで争った。

 

 

第二項 大乗の興起、馬鳴と龍樹

 

五百年の時には他の宗教が盛んとなり、小乗は衰退した。大乗はなおさらだった。

ここにいたり馬鳴論師は六百年の時、始めて大乗を広め、『大乗起信論』などを執筆した。外道の邪見はみな舌を巻いて滅び、小乗の他の部派も口を閉ざして威に服した。大乗の深い教えがこの世界に再興され、人々の能力は正しい道へみちびかれた。

 

次に、龍樹菩薩が六百年から七百年の初頭にかけて現れた。馬鳴についでインドに並ぶ者無く、あらゆる外道を打ち砕き、あらゆる仏法を受け継いでいた。三種の『華厳経』を胸に秘め、論理は川の流れのように滑らかで、多くの論書を執筆して師の馬鳴を超えており、仏法を極めることは非常に深いものがあった。

 

ともあれ、この二大論師は高位の菩薩である。馬鳴はかつては大光明仏であり、今は第八地の菩薩である。龍樹は昔は妙雲相仏であり、今は初地である歓喜地の菩薩である。共に本来は仏であり、垂迹として菩薩となって現れている。智恵と弁論が普通の人を超えているのは当然の事だ。

 

 

第三項 無著と世親

 

ここに至り、聖人の現世への出現も、縁は既に尽き、教化を終わり、本地へ帰る。衆生の悪業、宿縁もまた起こり、邪見は深い。そのため、九百年の時、無著菩薩が世に出で、人々を救う。夜は兜卒天に登り、弥勒菩薩から法を承け、昼は地上に降り、広く人々に伝えた。しかしながら、人々の執着は深く教えは届かない。そのため、無著は弥勒菩薩に自ら降臨して法を説かれるよう願った。弥勒菩薩は招請に応え、中インドの阿喩遮那の講堂に降臨し、五部の論書を説かれた。このうち『瑜伽師地論』は巻数は百、八万四千の法門の奥義に迫り、釈尊一代の教えを余すところなく伝えた。従って「広釈諸経論」という。

 

このとき、人々の邪見はすべて鎮まり、正道に赴き、その様子は流麗であった。弥勒菩薩が天に昇られてから、無著は後を継いで世界を教えを広めた。

 

その同時代に世親が現れ、また教えを広めていた。彼は始め小乗を広め五百部の論書を書いた。後に大乗を学び、また五百の論書を書いた。したがって、世間では彼は千部の論師と呼ばれた。

それだけでなく、訶梨跋摩の『成実論』。衆賢論師の『順正理論』もこのころに書かれている。

 

 

第四項 大乗教の分派

 

釈尊入滅後千年は、大乗も分かれる事は無かったが、千百年経ってから、始めて異なった見解が生じた。護法と清弁が依他起性の上に空有の事を論争し、千七百年には戒賢と智光が相と性について論争した。ダイヤモンドとダイヤモンド、巨石と巨石とがぶつかるようであった。

 

また、その他の大論師は龍智、堤婆、青目、羅睺羅、陳那、火弁、智月などがおり、彼らは四依の大士とよばれ、人々の拠りどころであった。それは古今に抜きん出て、蘭菊美を争った。後世の宗派は彼らを祖匠と呼び、当時の人は教えを請うた。この様な論師が順に現れインドを照らし、人々の苦しみを除いた。これがインドの仏教弘通のありさまである。

 

 

第三節 中国

第一項 佛教の伝来と経論の翻訳

 

中国においては、釈尊入滅後一千年の末に始め迦葉摩騰が来たり、次に竺法蘭が来て、まず仏・法・僧の三宝が伝わり、人・天・声聞・縁覚・菩薩の五乗が広まった。

 

それ以来、後漢・魏(三国)・晋(ここから南朝)・宋・斉・梁・陳・隋(ここで南北統一)・唐・宋。これらの時代に三蔵を学んだ学僧はそれぞれ仏教を伝え、互いに聖法を広めた。

 

訳経僧にはインドから来る者有り、また中国からインドに留学して帰る者も有った。大小乗の三蔵はみなことごとく伝来し翻訳され、顕教・密教の二宗が広まった。

 

ここに至り、鳩摩羅什、玄奘の翻訳は玄妙の極みであり、韋駄天が弁舌第一と告げた程である。覚賢、曇無讖の訳の美しさは、龍神の加護を得たものである。

 

 

第二項 諸宗の成立

 

その他の高僧で仏法を崇る者としては、吉蔵、慧遠は八不の教えを説いて三論宗を広めた。

慧思、智顗は一心三観の教えを説いて天台宗を広めた。

キ基、慧沼は三草二木の教えを説いて法相宗の教えを広めた。

法蔵、澄観十玄六相の教えを説いて華厳宗を広めた。

それだけでなく、普光、法宝の二師は倶舎論を極め、法礪、道宣の両師は戒律を磨いた。

いわんや成実宗の大義は慧影が独り極め、真言密教には一行と恵果が通じていた。

 

その他の諸大徳は数えることもできない。みな仏法の大道を広め、教えに通じた。その徳は高く、天の給わる所であり、その優れた理解は心に仏を見るものであった。

 

このような高僧の古今多いこと、優れたこと、言葉の及ぶところではない。これが中国における仏教普及の様子である。

 

 

第四節 日本

第一項 佛教の伝来と聖徳太子 

 

日本の仏教については、人王第三十代の欽明天皇の時代六年目乙丑(中国では梁朝の大同八年に当たる。)十一月に、百済国聖明王から金銅の釈迦像一体と、幡蓋、若干の経典・論書を贈られ、天皇は歓喜してこれらを崇められた。

その時にこれらに敬意を表さない臣下もいたが、結局、寺院を建立し、経典を安置した。

その後、徐々に仏教は広まった。

 

三十一代の敏達天皇の元年壬辰正月一日、聖徳太子が和国に誕生し、さらに仏教を広め、広く天下に満ち、伽藍は国中にあり、僧侶は無数だった。

逆臣守屋は仏の智慧の矢を受けて倒れ、高麗国の慧慈、慧聡は布教で称賛された。

邪見を降伏させ、三宝を興隆させ、人々の苦しみを除き、仏事を起こす。

古今、どこでこれほどのことが行われただろうか。

ひとえにこれは上宮(聖徳)太子の善行による。

 

 

第二項 八宗の伝来

 

それ以来、高僧もしばしば現れ、広く仏法は伝わり、釈尊も日本に垂迹して三宝を広められた。

慧観僧正は三論の深義を伝え、玄昉僧正は法相の大乗の教えを広めた。

華厳の円の教えは道セン律師が伝え、戒律と天台は鑑真和上が広めた。

伝教大師最澄は重ねて天台を興隆させ、弘法大師空海は真言の門戸を開いた。

倶舎と成実もそれぞれ伝承された。

これらの高僧は唐から来た人もおり、また日本から唐へ留学して、また帰朝した人もいる。

 

 

第三項 八宗の伝播

 

それ以外の諸師も多く教えを広め、時代を超えて法を伝えた。

あるいは天台の流れを汲み、あるいは三論の光を伝え、あるいは華厳の月の光を受け、あるいは法相の樹の葉となった。あるいは戒律の松、湖の苑に遊んだ。

あるいは真言の龍のように海底を極め、倶舎の雲のように四面を覆った。

大小の両乗、三論・法相の二宗、教相門(学問)と観心門(瞑想)の二門、顕教と密教の二教がそれぞれ伝わることは、数えることもできない。

 

南都七大寺は肩を並べて教えを讃え、南北二つの都(奈良と京都)はその麗しい教えを競って学んだ。

彼らは皆、龍象のような人々で、人界・天界の大師と言える。

その他の地方でもまた教えは広まり、古今絶えることはない。

末法の世には仏法の味わいも薄いが、教えの海はたいへん深い。

その奥を究めることは難しい。

素晴らしい事ではないか!言葉で表すこともできない。

これが日本に仏教が伝わった様子である。

 

 

第三章 八宗概説 

 

問い。仏法がインド・中国・日本の三国に広まった様子はおおよそ知ることができた。

しかし、現在日本に伝わっている仏法は全部でどれほどあるのか?どうか、再び答えてほしい。

答え。日本で古来学ばれているのは、八宗のみであり、(1268年)現在に至るも変わっていない。

歴史の中では異なる教えが無いこともない、そうは言っても一般に認められているのは、ただ八宗のみである。

 

問い。八宗とは何か?

答え。1倶舎宗 2成実宗 3律宗 4法相宗 5三論宗 6天台宗 7華厳宗 8真言宗である。

 

問い。この八宗のうち、どれが大乗でどれが小乗か?

答え。倶舎、成実と律、この三宗が小乗である。法相、三論、天台、華厳、それから真言、この五宗が大乗である。

 

問い。この八宗の教義をそれぞれ聞かせてほしい。

 

答え。それぞれの宗派の教えはとても深く、すべてを知ることは難しい。一つの宗でもまだ知らないことがあるし、なおさら八宗などとんでもない。そこで、教義の項目だけを書いて、おおまかに一つの見解を書くことにする。