三論宗


第五章 三論宗

第一節 宗名と所依の論

第一項 宗名

 

問い。なぜ「三論宗」という名称なのか。

答え。三部の論書を根拠としているので「三論宗」と呼ぶ。

 

 

第二項 所依の論

 

問い。その三部とは何か。

答え。1. 『中論』四巻、龍樹菩薩造。2.『百論』二巻、提婆菩薩造。3.『十二門論』一巻、龍樹菩薩造。これを三論と呼ぶ。

ところが、もし『大智度論』百巻を加えると四論となる。また、これも龍樹菩薩造である。

 

この四論のうち、三論は通申の論である。大小乗の様々な教えを「通」じて「申」べているから。

『大智度論』は別申の論である。『大品般若経』について個「別」に「申」べているから。

仮に『大智度論』を全訳すれば千巻になるが、鳩摩羅什三蔵が九割を削り、抄訳して百巻になった。

 

三論について、『中論』は主に小乗(説一切有部等)を破し、兼ねて外道(バラモン教等)を破し、大乗の教えをあきらかにした。

『百論』は主に外道を破し、あわせてその他を破し、大乗の教えをあきらかにした。

『十二門論』は小乗と外道を共に破し、大乗の深い教えをあきらかにした。

 

 

第二節 破邪顕正

第一項 破邪

 

三論があきらかにする事は「二諦」の他に無い。

おおむね、この三論宗の大意は「破邪」「顕正」の二つの門を規矩とする。

論書は三冊あると言っても、その教えは二つのみである。

「破邪」は則ち迷いに沈む人々を救い、「顕正」は則ち大法を広める。

宗の大要はこの二つ、これが大宗を成立させている。

 

問い。そこでいう「破邪」とはどのような邪なのか。

答え。あらゆる一切の有所得見を破する。

略してこれを説明すると、四見にまとめられる。

1.外道(バラモン教)実我の邪見を破す。

2.『阿毘達摩倶舎論』実有の執見を破す。

3.『成実論』偏空の情見を折る。

4.有所得大乗の見解を挫く。

 

内外ことごとく破し、大小あまねく折る。

有所得は何であろうとも皆な破る。

したがって、破られないものはなく、責められないものはない。

これを三論宗の破邪の義という。

 

 

第二項 顕正

 

問い。その顕正とはどのような「正」をあきらかにするのか。

答え。破邪の他、別に顕正は無い。

破邪し尽くしたなら有所得はない。

所得は既に無いのなら、言葉や思慮が近寄ることも無い。

つまり、破邪があるから、それに対して顕正がある。

 

一つの源を窮(きわ)めなければ、則ち戯論(無意味な議論)は滅せず。

微小な真理を得なければ、則ち至道(悟りへ至る道)はあらわれず、源を窮めることはできない。

 

ここで、戯論が滅び、理(ことわり)を究め尽くすなら、玄道(真理の道)はここに通じる。

その言葉によって「正」を語るなら、すべては明らかであるだろう。

 

問い。では、顕正の意味とは何か。

 

答え。真実の道が至るところは根源の極まり。

言語の及ぶところではなく、有ると言えば愚かしいことであり、無いと言うのも無智なことである。

それは『維摩経』で須菩提(スブーティ)や舎利弗(シャーリプトラ)が維摩居士(ヴィマラキールティ)に叱責されたようなものである。

 

有でもなく、無でもなく、また有無でもなく、非有でも非無でもない。

言葉が断ち切られるところ、心の働きの滅するところ。

ただ広がって寄る辺なく、寥々として拠り所もない。

私は知らない、何と呼べば良いのか。

強いて言えば、顕正と言う。

 

問い。言語を絶し、有・無を離れたもの、それはつまり「空」のことである。なぜそれが顕正であるのか。

 

答え。既に有・無を離れたのであるから「空」に執着することもない。

仏道の本質とは、拠り所をもたない事である。

有・無ともに絶したのだから、実体的な真実は無い。

顕正の意味はここにきわまる。

 

 

第三節 真俗二諦

 

問い。既に有・無を離れてしまった。もしそうであれば、縁(関係性)によって生じる諸々の法(存在)はどのように存在することができるのか。

答え。関係性によって生じる諸々の存在は仮の有であり、仮の有は無所得である。だから、二諦・四中が成り立つ。

その二諦のうち俗諦(世俗的真理)の見方によって、実相から離れずに諸々の存在が成立する。

また、真諦(究極的真理)の見方によって、仮の存在を認めた上で実相を説くことができる。

故に、空はそのまま有であり、有はそのまま空である。

般若心経の「色即是空、空即是色」の意味はここにある。

 

二諦は教文であるが、教理に依っているものではなく、機縁ある人に便宜上説いたものである。

真実には二諦は否定される。

有はこの場合空の有であるから、有といっても有そのものではない。

空はこの場合有の空であるから、空といっても空そのものではない。

非有であるから有に即して空と言う。

非空であるから空に即して有と言う。

諸仏の説法は常に二諦に依るというのはこのような意味である。

 

三論宗のあきらかにするのは、要するにこの無得の正観のみである。

したがって、古人のいわく「八不妙理の風は、妄想戯論の塵を払い、無得正観の月は、一実中道の水に浮ぶ。」と。

 

無得正観を以て観ずるなら、仮の存在である万物は、そのまま森羅万象となる。

上記の文に随って理解することができる。

 

 

第四節 仏果と行位

 

問い。三論宗では成仏の結果についてどのように語っているか。

答え。一切の人々は本来仏であり、六道を輪廻する人々は本来寂滅である。

迷いもなく、また悟りもなし。どうして成仏・不成仏を論ずることがあるのか。

 

したがって、三論宗には迷い・悟りは本来無く、湛然寂滅である。

しいて言えば、仮に区別する見方(仮名門)の中で迷い・悟り、成仏・不成仏を論ずるだけである。

このような意味で言うと成仏に遅速の差がある。能力に利鈍の差があるから。

 

一瞬(一念)での成覚は短。永遠程の時間(三祇)での成仏は長。

一念は永遠を妨げず、三祇は一瞬を妨げず。

一念はすなわち三祇、三祇はすなわち一念。

 

一夕の眠りに百年のことを夢み、

百年のことは還ってもとの一夕なるがごとし。

 

三祇を経るためにあらゆる行いは積(積行)み重なり、一念である故に仏果速疾である。

 

問い。三祇の積行とはどのような段階を経るのか。

答え。三祇の菩薩は五十一位を経てその後仏果に至る。したがって、三論宗では五十二位を立てる。

 

この宗の教義では、覚りの本体は本来そなわっているが、迷っているために生死がある。

迷いを返して源(みなもと)へ還り、ただ塵を払えば、本来そなわった覚りの本体がありのままに顕れる。

これを始覚仏とよぶ。

 

まさに知るべきである。

迷いに対応して悟りという概念を立て、悟りに対応するから迷いが存在する。

つまり、悟りをひらけば迷いは無く、迷いが無いならどうして悟りがあるだろうか。

迷い無く、悟り無く、迷・悟は本来存在しない。本来寂滅である。

迷・悟・染・浄は仮に作られた概念である。

無得正観により、即ち妙に至道を極めるのである。

 

 

第五節 八不と四種釈義・四重二諦

 

問い。それでは八不とは何か。

答え。生ぜず、滅せず、断ならず、常ならず、一ならず、異ならず、去らず、来らず、である。

八つの迷いを離れるために、この八不を説く。

これが即ち三論宗の顕らかにする理である。

 

三論宗では一切の法を解釈するために四種の釈義がある。

1.依名釈義、2.因縁釈義、3.見道釈義、4.無方釈義。

一切の法門はこれによって解釈される。

 

また、四重の二諦を立てる。

1.有を俗諦とし、空を真諦とする。

2.有空を俗諦とし、非空非有を真諦とする。

3.空有と非空非有を俗諦とし、非非有非非空を真諦とする。

4.前の三重を俗諦とし、非非不有、非非不空を真とする。

これは外道(バラモン教等)・説一切有部・有所得大乗(地論宗・摂論宗)を破するためである。

 

 

第六節 本宗の教判、二蔵と三転法輪

 

問い。三論宗では幾種の教を設定して諸教を分類するのか。

答え。二蔵と三転法輪を立てて、釈尊一代の教えを分類している。

 

二蔵とは

1.声聞蔵。これは小乗教である。

2.菩薩蔵。これは大乗教である。

大小の二教によって分類される。これは『大智度論』の説である。

 

三転法輪とは

1.根本法輪。『華厳経』である。

2.枝末法輪。『阿含経』以後『法華経』までである。

3.摂末帰本法輪。『法華経』である。

釈尊一代の教えはすべておさめ尽くされる。これは『法華経』の説である。

 

大小の二乗は顕らかにする理は同一であるが、受け取る人の機根が異なるために違いがある。

諸大乗教は顕らかにする道は異ならないが、縁によっているから別の教えになる。

 

諸大乗経を判断するにそれぞれ優劣で三段階に分ける。

一切の教えを判断するに偏った解釈は無い。

 

 

第七節 三論宗の歴史

第一項 インドの相承

 

問い。三論宗では誰を祖師としているのか。

答え。祖師の血脈は三国(インド・中国・日本)を相承して、師と師がその歩みを受け継いでいる事は、三論宗では実にはっきりしている。

 

初め大聖文殊師利(マンジュシュリー)菩薩を高祖とする。

次ぎに馬鳴(アシュバゴーシャ)菩薩を次祖とする。

次ぎに龍樹(ナーガールジュナ)菩薩は見事にこの宗を広めた。

龍樹は龍智(ナーガボーディ)菩薩および提婆(アーリヤデーヴァ)菩薩に教えを授けた。

この二大論師は肩を並べて教化を施し、龍智は清弁(バーヴァヴィヴェーカ)菩薩に授け、清弁は智光論師に授け、智光は師子光菩薩に授けた。

 

一方、提婆菩薩は智慧が甚だ深く、弁論の才能に優れていた。

そこで、おおいに他宗教を論破し、盛んに仏教を広めた。

論師はこの宗を羅睺羅(ラーフラバドラ)菩薩に授け、羅睺羅は沙車王子に授け、王子は鳩摩羅什(羅什・クマーラジーヴァ)三蔵に授けた。

 

 

第二項 中国への伝訳と弘通

 

羅什三蔵は後秦(中国五胡十六国時代の姚秦)の時代に中国へ来たり、大いに経典論書を翻訳し、おもに三論宗を伝えた。

四論は羅什師が翻訳したものである。

翻訳の美しさは古今名声が高く、深い智慧と才覚は三国に尊ばれた。

弟子達が仰ぎ見ることは星々が月を囲むようであり、多くの王朝が帰依することは川が大海に流れるようであった。

道生・僧肇・道融・僧叡が肩を並べて法を相承し、曇影・慧観・道恒・曇済は志を同じくその美を讃えた。

遂に曇済大師によって歩みを受け継がれ、さらに道朗大師に授けられた。

道朗は僧詮大師に授け、僧詮は法朗大師に授け、法朗は嘉祥大師吉蔵に授けた。

 

嘉祥大師は元々イランの人である。

幼少のころ父とともに中国へ来て、法朗大師のもとで三論を学んだ。

嘉祥大師はまことに三論法門の綱領であり、古今に抜きん出ており、その威徳は象王の威厳があり、智慧と弁論の光は日月も霞むようであった。

著作も甚だ多く、広く書かれており、三論・法華をその心臓としており、大小両乗はことごとく奥底まで窮めていた。

三論宗がはなはだ盛んとなったのはもっぱらこの師のためである。

諸祖の中でも特に大祖とされる。

経典の解釈は理を尽くしており、加える言葉もない。

そして、嘉祥大師は三論宗を高麗の慧観僧正に授けた。

 

 

第三項 日本への伝来と弘通

 

僧正は日本に来て、広くこの宗を伝えた。

慧観は福亮僧正に授け、福亮は智蔵僧正に授け、智蔵は道慈律師と頼光法師に授けた。

 

道慈は善議大徳に授け、善議は勤操僧正に授け、勤操は安澄大徳に授けた。

このように相承して今に至るも絶えない。

明師が輩出してそれぞれ教えを広めた。

三論宗が三国に失墜することなく伝承されたのは明らかである。

そのため、義浄三蔵のいわく「インドに二宗がある。『瑜伽』と『中論』である」と。

 

教理の甚だ深い事は何れの宗が及ぶだろうか。

布貴の道詮が言った事がある。「インドの四本の河川の流れは、同じ無熱池から出ている。七宗は分かれているがみな三論から出ている。」

まさに知るべきである。諸宗はすなわち三論の末、三論はすなわち諸宗の本である。

どうして龍樹の意志を汲もうとしない宗があるだろうか、諸宗はことごとく崇めて大祖としているのだから。